スカイ・ライダーズ

自転車に乗ります

映画「シェイプ・オブ・ウォーター」感想

久しぶりに映画を観てきたので、自分の脳内の整理がてら思ったことを書いていこうかと思います。僕はこのテの文章を書くのにあまり慣れておらず、読み苦しい点も多いかと思いますがご了承ください。ちなみに、僕のブログを愛読してくださっている方 (そんな人間がいるかは甚だ疑問ですが)は前々回のブログでお気付きかもしれませんが、僕は感想文を書くときは文体を少し変えています。

 

様々な映画祭で高評価を受けアカデミー賞を初めとした賞を総ナメにしたとのありふれた触れ込みと、人間と怪物の愛の物語というテーマに興味を惹かれ、また奇しくもちょうど友人に誘われたのもあり、この映画、シェイプ・オブ・ウォーターを観賞した。僕がこの文章を書き始めたのは、ゴジラの巨大像で知られるTOHOシネマズ新宿で映画を観た帰路の副都心線東京メトロ11000系列車の車内でのことなので、当然僕の頭にはこの映画の内容(その意味するものはさておき)がまだ殆ど完璧に入っている。そして僕はこれからその前提で話を進めてゆく。すなわちそれはこの記事を読んでくださっている皆様とはスタートラインが違うということだ。例え話をしよう。学園モノのドラマや漫画、あるいは小説で、こんなシーンを見たことはないだろうか。朝、教室に入る主人公格の女子高生。彼女が着席すると、すかさず友人A(ことによるとそこにB,Cも付随して)が駆け寄ってきて、「ねえねえ、昨日の○○って番組見た?マジヤバかったよね〜!!△△があそこでさぁ(以下略)」などと、このような台詞をマシンガンのごとく捲し立てる。だがその女子高生はその番組を観ていない。しかし友人Aにとってその是非は関係ないのだ。当然、言葉の弾丸をたっぷりと浴びた彼女の抱く感情は困惑の二文字に尽きるだろう。例えが長くなってしまったが、僕と皆様方が置かれている状況はちょうどこれに似ていて、だから僕は、この友人Aにならないために、この映画の感想を語るにあたり、視聴者である皆様に最低限の説明をしなければならない。とは言っても、僕の拙い文章力では物語のデティールどころか、あらすじのみを語るにも不自由してしまうことは容易に想像がつく。インターネット・テクノロジーの発展というのは実に便利なもので、このような状況に陥った僕に対してとても見事な働きをしてくれる。下の文章を読んで頂こう。ここからはネタバレも含む内容となるので、見たくない方はブラウザバックするのをお勧めする。

 

1962年の冷戦下のアメリカ。発話障害の女性であるイライザは映画館の上にあるアパートでただ独りで暮らし、機密機関「航空宇宙研究センター」で清掃員として働いている。アパートの隣人であるゲイのジャイルズ、仕事場の同僚で不器用なイライザを気遣ってくれるアフリカ系女性のゼルダに支えられ、平穏な毎日をおくりながらも、彼女は恋人のない孤独な思いをつねに抱えている。

そんな日々のなか、宇宙センターに新メンバーのホフステトラー博士が一体の生物の入ったタンクを運び込む。普段はイライザに不遜な対応を見せる軍人ストリックランドが、生物を邪険に扱った報復を受けて指を失う騒ぎがあり、清掃のために部屋に入ったイライザは初めてその生物を直視する。生物は「半魚人」と呼べる異形の存在だったが、独特の凛々しさと気品を秘めた容貌をもち、イライザの心を揺り動かす。彼女は生物に好物のゆで卵を提供し、手話を教えて意思の疎通をはかる。ふたりは親密な関係となってゆく。

生物が運ばれてきた理由がやがて明らかになってゆく。アマゾンの奥地で神として現地人の崇拝を受けていたという生物を、ホフステトラーは人間に代わる宇宙飛行士としてロケットに乗せようと提案する。それに対しストリックランドは、生体解剖でこの生物の秘密を明らかにすべしと主張し、上官の同意を得る。これを知り動揺したイライザは、ジャイルズやゼルダに自らの思いを打ち明け、生物を救う計画に手を貸してほしいと懇願する。一方ソ連のスパイだったホフステトラーは、アメリカが生物の秘密を知って宇宙開発の優位に立つ前に、生物を殺すよう政府に命じられる。だがホフステトラーは貴重な生物を殺すことに反対する。

イライザはジャイルズ、ゼルダ、ホフステトラーの協力を得て宇宙センターより生物を救出し、雨で増水した日に彼を運河から水中に返す計画を立てる。そしてその日まで彼女は、生物を自分のアパートに隠して暮らす。他方、ホフステトラーは命令不服従によりソ連スパイに撃たれ、その後ストリックランドから拷問を受けて絶命する。ストリックランドはホフステトラーの最期の言葉から、ゼルダとイライザが救出を実行したと知る。

ゼルダの家へ向かい彼女を尋問するストリックランドに、ゼルダの夫はイライザが関わっていることをバラしてしまう。ストリックランドはイライザの家を目指し、彼女の身の危険を感じたゼルダは電話で逃亡を指示する。

イライザとジャイルズは生物を運河の水門に連れてゆき、別れを告げる。その時、後から追ってきたストリックランドが生物とイライザに向けて発砲する。イライザは意識を失うが、一命を取り留めた生物はストリックランドを殺害し、イライザを抱え海に飛び込む。

生物の驚異的な治癒能力で蘇生したイライザは、彼と共に海の中で幸せに暮らしてゆく。

シェイプ・オブ・ウォーター - Wikipedia

 

とまあこういった具合だ。非常に簡潔に、だが要点を捉えてある。僕ごときには逆立ちしたって書けない要約だ。

では早速、先述の要約を踏まえ、それに補足を加えつつ感想を綴ってゆく。先にお断りしておくが、これは僕という一個人の感想であり、製作者サイドの意図したものとは必ずしも一致しない。

 

主人公であるイライザと、彼女と懇意な(後に彼女が怪物を研究所から逃がすことに協力する)登場人物たちは、皆なんらかの社会的差別を受け得る要因を持つということが、この映画を紐解くにあたって重要な点だと僕は考えた。イライザは孤児であった過去を持ち、また発話障害を抱えている。

ほぼ同居人と化しているイライザの隣人ジャイルズはゲイだ。昨今こそ性的マイノリティーに対し理解ある世間になりつつあるが、元来同性愛に対する嫌悪意識は紀元前から深く根付くものであったとされており、旧約聖書にも同性愛は断罪されなければならない、との一節が存在する。医学界においてすら、つい20年ほど前まで、同性愛は精神疾患であり然るべき治療が必要との規定があったほどだ。舞台となる1960年代のアメリカにおいて、それに対する偏見や差別意識が非常に大きかったことは言うまでもない。

イライザの同僚、ゼルダアフリカ系アメリカ人である。設定の1962年当時、アメリカではアフリカ系アメリカ人をはじめとする有色人種への差別は未だに根強く、ジム・クロウ法も存在した時代だ。州によっては、黒人の血が入る者は白人との結婚を禁止されていた程である。こちらについても、差別意識が熾烈だったことは容易に想像できる。

そして、イライザの働く研究所に運び込まれてきた謎の怪物。彼は姿形こそ人間とはかけ離れたおぞましさであるものの、人間の意思を理解することはできる。当然のことであるが、彼は教育を受けてはいないので言語は持たず、喋ることもできない。だがイライザに手話を教えられた怪物は、徐々にそれを習得している。

怪物とコミニュケーションを取ってゆくうち、イライザはこう考えたのだろう。人間と同じように意思と知能を持ち、ただそれを表現するだけの術を持たないのみにすぎないこの怪物と発話障害の自分とは、いったい何が違うのだろうか?むしろ他の人間たちより、この怪物の方が自分に近いのではないだろうか?と。そしてその想いはいずれ愛へと発展することになる。物語の終盤、怪物がそう遠くない未来に殺されることを知った彼女は、怪物を逃がす計画を立てるのだ。

イライザの隣人ジャイルズは、イライザに協力を懇願されるも、その計画に反対していた。しかしその直後、世間話を続けた末に親密な関係となりかけていたパイ屋の主人に、ゲイであることをカミングアウトすると、途端に露骨な嫌悪感と共に店を追い出され、二度と来るなと突き放される。"ただゲイであるがためだけに"迫害を受けた彼はその時、"ただ姿形が半魚人であるがためだけに"殺されようとしている怪物と、それにシンパシーを感じるイライザの気持ちを痛感したと推察できる。

ゼルダも、黒人であるがためにストリックランドに心ない言葉で踏み躙られ、そこでイライザに共感し、協力を決意したのであろう。

クライマックスにおいて、ゼルダは結婚以来不満を感じながらも、それを切り出すことができず言いなりとさせられていた夫に対し、とうとう堪忍袋の緒が切れたとばかりに長年の不満を爆発させることができた。そしてイライザは、ストリックランドに心臓を撃ち抜かれて絶命しかけるものの、怪物の驚異的な能力によって生還し、怪物と共に海に飛び込み、幼少期の傷がえらとなり海中で怪物と幸せに暮らしてゆく、といった描写で映画は幕を閉じている。

彼女たちは、それぞれに対する偏見に対して立ち向かい、その結果として幸福を手にしている。これはさまざまな偏見や差別に対する救済を表現しているのではないだろうか。

ところで、ジャイルズに限っては、幸福を手にしたような描写をどうにも僕は読み取ることができなかった。もし読者の方々でそれを発見したという方は、是非コメントなどを残して頂けるとありがたい。

さて、ある物語になんらかのメッセージ性を持たせようとした時、ほぼ間違いなく採られるのが、悪役を配置するという手法だ。大抵の場合、物語の含むメッセージ性は主人公によって視聴者に伝えられる。悪役は、主人公の存在を対比的に鮮やかなものとし、また悪役が主人公に迫害を与えることは、視聴者に主人公へのシンパシーを感じさせ、感情移入を誘う。これによりメッセージ性が明らかなものになりやすくなる。

この物語において最大の悪役となっているのは、イライザが働く研究センターの警備員のリーダー格的立場であるストリックランドだ。彼は純粋な白人で、それなりに高い社会的地位、富、そして家族を持ち、またなんらかの身体的/精神的障害も抱えてはいない。その何一つ不満を抱えることが無いような恵まれた環境に置かれているせいか、彼は強烈な差別主義者であり、またサディストの側面もある。彼はイライザやゼルダに対して日常的にパワハラを行う。これは彼が身分や地位に依存していることの裏返しとも読み取れる。自分より低い身分や地位の者に迫害を与えることで、自己の存在や価値を肯定、再確認しているのだ。

研究所からの怪物の脱出を許すという不手際を犯したストリックランドは、怪物を回収しなければ現在のポストを失うという状況に追い込まれる。そして地位を失いたくないあまり彼は徐々に我を見失ってゆく。その姿はひどく惨めなものだった。最終的に彼は、怪物に惨殺され死を遂げてしまう。これは一瞥すると一人の悪役が成敗されただけかのようにも思える。だが見方を変えれば、ストリックランドのように地位や身分に固執しても幸福は訪れない、そんなものに拘る必要はないということでもある。これはイライザらで描き出される激励と意義としては同じで、それに逆からアプローチしたという解釈はできないだろうか。

この映画は得てして怪物と人間の女性の愛の物語と捉えられがちで、そしてそれは実際に間違っているわけではない。だが、この物語の本質は別のところにある。それはイライザらやストリックランドという登場人物らが描き出した、身分、人種、障害、性差などへのあらゆる差別を受ける人々に差し伸べられた、ささやかな救いの手であると僕は考えるのだ。

そしてこの映画が高い評価を受ける理由は、その差別への救済という内容だけでなく、その救済の手を差別をする側の人間にも差しのべていることなのかも知れない。

この作品はアカデミー賞受賞の触れ込みに違わず、非常に興味深い映画だ。ぜひとも映画館に足を運ばれたい。(ってネタバレしてんじゃんか)